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Sixties 45

The Beatles - Please Please Me / From Me To You

1964(1963) USA Original 45rpm Record [VEE-JAY/581]

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20世紀の音楽史に残るイギリス出身の伝説のロック・バンド/ザ・ビートルズが、1963年1月11日にイギリスでPARLOPHONEレーベルからリリースした2番面のシングル曲です。



ジョージ・マーティン・プロデュースによる作品です。

George Martin


ニューミュージカルエクスプレスとメロディーメイカーのチャートで1位、レコードリテイラーチャートで2位を記録しました。

アメリカでは1963年2月にVEE-JAYレーベルからファーストシングルとしてリリースされ、「アスク・ミー・ホワイ」がカップリングされたシングルでしたがヒットには至っておりません。



1964年1月3日に「フロム・ミー・トゥ・ユー」のカップリングに差し替えられたシングルがVEE-JAYレーベルから再リリースされ、その時にビルボード・トップ100チャートで3位を記録しました。ローリングストーン誌が選ぶ「ザ・500・グレーテスト・ソングス・オブ・オール・タイム」では184位に選定されています。またビートルズの英ファーストアルバムのタイトルにもなりました。

ロイ・オービソンや、ビング・クロスビーに感化され、ジョン・レノンが書いた曲で、ジョンは最初に「プリーズ・プリーズ・ミー」はブルージーでスローテンポの曲として考えていました。しかしプロデューサーのジョージ・マーティンはそのバージョンを非常に退屈だと思い、提案で「プリーズ・プリーズ・ミー」はアップテンポに変更されました。ジョージ・マーティンによると、1962年9月11日に行なわれた「ラヴ・ミー・ドゥ」のリメイク・セッションで最初のレコーディングが行なわれ、ドラムはアンディ・ホワイトが担当しており、リンゴ・スターはタンブリンやマラカスを演奏しています。ハープもまだ含まれていませんでした。その最初のバージョンは『ビートルズ・アンソロジー1』で聴く事が可能です。




「ラヴ・ミー・ドゥ」をフォローアップした形でジョンのハープをフィーチャーし、疾走感のある軽快なロックンロールへと変貌を遂げた初期ビートルズ・クラシックス!

裏面はポール・マッカートニーとジョン・レノンによって書かれた曲で、UKシングルチャートで最初のナンバー1ヒットでした。米国では1964年8月10日に116位でピークに達しました。

レノンとマッカートニーは、ヘレン・シャピロとのビートルズのツアーの一環としてシュルーズベリーに向かうコーチに乗って、「フロム・ミー・トゥ・ユー」を書き始めました。

歌のオープニングで聴ける「ダダダダダダダムダムダ」というパートのアイデアは、ビートルズのプロデューサーであるジョージマーティンによって提案されました。グループはそれを普通ではない思ったが、最終的にはマーティンに信頼を置くようになったそうです。それをEMIプロデューサーのロン・リチャーズは「ある意味で、これにより(ビートルズは)ジョージの巨大な音楽的感覚を認識させた」と後に述べています。

1963年3月5日のEMIスタジオでの6回の録音は滞りなく行われ、4月11日にPARLOPHONEレーベルは「サンキュー・ガール」がカップリングされたシングルとして「フロム・ミー・トゥ・ユー」をイギリスでリリースしました。

ジョン・レノンは、アメリカ人ミュージシャンのデルバート・マクリントンから学んだジミー・リード風のブルース・スタイルでハーモニカで演奏しています。

カッコ[VJ]ロゴのバリエーション・プレスです。

コンディション:VG/VG
マトリックス番号63-2967 AudioMatrix / 63-3218 AudioMatrix

アーティスト【ザ・ビートルズ】























ロック・グループ。1957年3月、クオーリー・バンク・スクールに通う16歳のジョン・レノンが結成したスキッフル・グループ/ザ・ブラックジャックス(The Blackjacks)~ザ・クオーリーメン(The Quarrymen)が前身となる。同年7月、15歳のポール・マッカートニーがギタリストとして参加。1958年2月、ポールの友人だった14歳のジョージ・ハリソンをジョンがオーディションし、数ヵ月後にジョージはリード・シンガーとしてグループに参加。1959年1月、友人が抜けてギタリスト3人トリオとなった彼らはジョニー&ザ・ムーンドッグス(Johnny & the Moondogs)を名乗りロックンロールを演奏。1960年、ジョンが通っていたリヴァプール・カレッジ・オブ・アートの友人スチュアート・サトクリフがベーシストとしてグループに参加。同年5月頃、スチュの提案でグループ名を The Beatles として活動。そしてリヴァプール出身の歌手 ジョニー・ジェントル のバッキングとしてスコットランド等をツアーで遠征し、同年7月より約一ヶ月の間は The Silver Beatles として活動。同年8月、ドラマーに恵まれなかった彼らは、当時の臨時マネージャー/アラン・ウィリアムスが手配したドイツ・ハンブルク公演のために、ピート・ベストを迎え入れて5人編成となり、その後約2年間はハンブルグを中心に活動。1961年1月、スチュアートは絵描きに専念する為、グループからの脱退を決意し、ポールがベーシストとなる。そして当時交流のあったドイツの音楽プロデューサー/ベルト・ケンプフェルトの提案で、歌手トニー・シェリダンのバックを努める。1961年6月に録音された「My Bonnie」はトニー・シェリダン&ザ・ビート・ブラザーズ(Tony Sheridan & The Beat Brothers)名義でリリースされヒットした。ハンブルグでの人気を確立した彼らはその後再びリヴァプールに戻り演奏。同年11月にキャヴァーン・クラブにて、レコード屋店主で音楽評論家の ブライアン・エプスタイン と出会い、1962年1月にブライアンは彼らのマネージャーとなる。同年2月にDECCAレーベルのオーディションをうけるものの「ギター・グループは落ち目だ」という理由から不合格となったが、マネージャーのブライアンがEMIレーベルの音楽プロデューサー/ジョージ・マーティンとの交渉に成功し、同年6月に彼らはPARLOPHONEレーベルと契約する。6月6日には早速、アビーロードスタジオでの初セッションが行われたが、「ドラマーがヘタだ」という理由で、同年8月にロリー・ストーム&ザ・ハリケーンズ(Rory Storm and the Hurricanes)出身のドラマー/リンゴ・スターが新たにメンバーとして加入。それでもその時のセッションはジョージ・マーティンは気に入らず、スコットランド出身のセッション・ミュージシャン/アンディー・ホワイトのドラムスを起用し、「Love Me Do」と「P.S. I Love You」を録音した。同年8月にリリースされた彼らのファースト・シングル「Love Me Do」は全英シングルチャートで最高17位を記録する大ヒットとなり、その後テレビにも出演。マネージャーのブライアンの提案により、髪の毛は下ろし、揃いのスーツを着て、ステージでは悪態をつかず禁煙もし、演奏が終わればお辞儀をする…等々、クリーンな印象を持つバンドとしての売り込みにも成功しました。以降は解散を迎える1970年まで第一線で活躍し、ロック史/歴史に残る伝説のバンドとして君臨している。
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