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Sixties 45

The Beatles - Paperback Writer / Rain (Re-Issue)

1971(1966) USA Re-Issue 45rpm Record [APPLE/5651]

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20世紀の音楽史に残るイギリス出身の伝説のロック・バンド/ザ・ビートルズが、1966年5月30日にCAPITOLレーベルからリリースした作品の、1971年APPLEレーベル・リイシュー・シングルです。

ジョージ・マーティン・プロデュースによる作品です。

George Martin

ビルボード・ホット100チャートで最高1位、USキャッシュボックスチャートで最高1位、カナダのRPMチャートで最高1位、全英シングルチャートで最高1位を記録しました。

主にポール・マッカートニーによって書かれた曲で、レノンとマッカートニーのパートナーシップの功績として認められています。レコーディングは1966年4月13日と14日にロンドンのEMIスタジオで行われました。マッカートニーのブーストされたベース・ギター・サウンドが特徴で、これは、ウィルソン・ピケットのレコードのベースがビートルズのどのレコードよりも優れている理由を知りたいというレノンの要求に応えたものでした。またマッカートニーによれば、このトラックのハーモニー・ボーカルはレコーディング・セッション中にアレンジされたそうです。

ザ・モンキーズは、ビートルズに基づいてキャラクターとサウンドを形作ったことに加えて、彼らのデビューシングル「クラークスビル行きの最終列車」の基礎として「ペーパーバック・ライター」を使用しました。



裏面もヒットしており、ビルボード・ホット100チャートで最高23位、USキャッシュボックスチャートで最高31位を記録しました。

ジョン・レノンによって書かれた曲で、レノンとマッカートニーのパートナーシップの功績とされています。この曲の録音には、速度を落としたリズムトラック、うねうねとしたベースライン、そして逆向きのボーカルが含まれています。これは、ポップソングにリバースサウンドが登場した最初の例の一つでしたが、ビートルズはその数日前に録音されたリボルバーのトラック「トゥモロー・ネバー・ノウズ」で同じテクニックを使用していました。リンゴ・スターは「レイン」で録音されたドラム・パフォーマンスが最高のものであると考えているそうです。また、この曲のために3つのプロモーションフィルムが作成され、これらはミュージックビデオの初期の先駆けの1つと考えられています。初期の英国サイケデリック・ロック・ソングとして評価される名作・2サイダーです。

コンディションVG++/VG++/JS(DNAP)
マトリックス番号45-45493-F1 / 45-45494-F1

アーティスト【ザ・ビートルズ】























ロック・グループ。1957年3月、クオーリー・バンク・スクールに通う16歳のジョン・レノンが結成したスキッフル・グループ/ザ・ブラックジャックス(The Blackjacks)~ザ・クオーリーメン(The Quarrymen)が前身となる。同年7月、15歳のポール・マッカートニーがギタリストとして参加。1958年2月、ポールの友人だった14歳のジョージ・ハリソンをジョンがオーディションし、数ヵ月後にジョージはリード・シンガーとしてグループに参加。1959年1月、友人が抜けてギタリスト3人トリオとなった彼らはジョニー&ザ・ムーンドッグス(Johnny & the Moondogs)を名乗りロックンロールを演奏。1960年、ジョンが通っていたリヴァプール・カレッジ・オブ・アートの友人スチュアート・サトクリフがベーシストとしてグループに参加。同年5月頃、スチュの提案でグループ名を The Beatles として活動。そしてリヴァプール出身の歌手 ジョニー・ジェントル のバッキングとしてスコットランド等をツアーで遠征し、同年7月より約一ヶ月の間は The Silver Beatles として活動。同年8月、ドラマーに恵まれなかった彼らは、当時の臨時マネージャー/アラン・ウィリアムスが手配したドイツ・ハンブルク公演のために、ピート・ベストを迎え入れて5人編成となり、その後約2年間はハンブルグを中心に活動。1961年1月、スチュアートは絵描きに専念する為、グループからの脱退を決意し、ポールがベーシストとなる。そして当時交流のあったドイツの音楽プロデューサー/ベルト・ケンプフェルトの提案で、歌手トニー・シェリダンのバックを努める。1961年6月に録音された「My Bonnie」はトニー・シェリダン&ザ・ビート・ブラザーズ(Tony Sheridan & The Beat Brothers)名義でリリースされヒットした。ハンブルグでの人気を確立した彼らはその後再びリヴァプールに戻り演奏。同年11月にキャヴァーン・クラブにて、レコード屋店主で音楽評論家の ブライアン・エプスタイン と出会い、1962年1月にブライアンは彼らのマネージャーとなる。同年2月にDECCAレーベルのオーディションをうけるものの「ギター・グループは落ち目だ」という理由から不合格となったが、マネージャーのブライアンがEMIレーベルの音楽プロデューサー/ジョージ・マーティンとの交渉に成功し、同年6月に彼らはPARLOPHONEレーベルと契約する。6月6日には早速、アビーロードスタジオでの初セッションが行われたが、「ドラマーがヘタだ」という理由で、同年8月にロリー・ストーム&ザ・ハリケーンズ(Rory Storm and the Hurricanes)出身のドラマー/リンゴ・スターが新たにメンバーとして加入。それでもその時のセッションはジョージ・マーティンは気に入らず、スコットランド出身のセッション・ミュージシャン/アンディー・ホワイトのドラムスを起用し、「Love Me Do」と「P.S. I Love You」を録音した。同年8月にリリースされた彼らのファースト・シングル「Love Me Do」は全英シングルチャートで最高17位を記録する大ヒットとなり、その後テレビにも出演。マネージャーのブライアンの提案により、髪の毛は下ろし、揃いのスーツを着て、ステージでは悪態をつかず禁煙もし、演奏が終わればお辞儀をする…等々、クリーンな印象を持つバンドとしての売り込みにも成功しました。以降は解散を迎える1970年まで第一線で活躍し、ロック史/歴史に残る伝説のバンドとして君臨している。
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