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Sixties 45

The Beatles - Hey Jude / Revolution

1968 USA Original 45rpm Record [APPLE/2276]

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20世紀の音楽史に残るイギリス出身の伝説のロック・バンド/ザ・ビートルズが、1968年8月26日にAPPLEレーベルからリリースしたシングルです。

ジョージ・マーティン・プロデュースによる作品です。


George Martin (center)

ビルボード・ホット100チャートで9週連続1位、UKシングルチャートで1位を記録しました。ローリング・ストーン誌が選ぶ「ザ・500・グレーテスト・ソングス・オブ・オール・タイム」では第8位に選定されています。

アルバム未収録曲シングルとしてリリースされた曲です。ポール・マッカートニーが書き、レノン&マッカートニーとしてクレジットされました。このシングルは、ザ・ビートルズにとってAPPLEレーベルでの最初のリリースでした。

「ヘイ・ジュード」の作詞作曲とレコーディングは、ビートルズの激動の時と一致していました。歌詞は悲しい状況についての前向きな見通しを支持し、同時に愛を見つける機会を追求するようにジュードを励ましています。

「ヘイ・ジュード」は、8トラック録音機器で録音された最初のビートルズの曲です。このセッションは、ロンドン中心部のトライデントスタジオで、グループの『ホワイト・アルバム』の録音の途中で行われ、曲のギター部分についてマッカートニーとジョージ・ハリソンの間で議論が起こりました。リンゴ・スターはその後、シングルを宣伝するクリップを撮影する直前にバンドに戻ってきました。このミュージックビデオは英国のテレビ番組で放送され、バンドを苦しめている問題とは対照的に、スタジオの聴衆がビートルズに加わってコーダを歌うのをフィーチャーすることにより、楽観主義と一体感を曲のテーマとして捉えられました。

「ヘイ・ジュード」は7分以上の長さで構成されており、それまでにイギリスのチャートで最上位を記録した最長のシングルでした。

裏面は米国オンリーのヒットで、ビルボード・ホット100チャートで最高12位を記録しました。ジョンが作曲したブルージーな作品で、ハードに歪ませたギターも痛快なロック・ナンバーです。

オリジナル・カンパニースリーブ付きです。

コンディション:VG++/VG+
マトリックス番号45-X-46434-G2 / 45-X-46435-G6

アーティスト【ザ・ビートルズ】























ロック・グループ。1957年3月、クオーリー・バンク・スクールに通う16歳のジョン・レノンが結成したスキッフル・グループ/ザ・ブラックジャックス(The Blackjacks)~ザ・クオーリーメン(The Quarrymen)が前身となる。同年7月、15歳のポール・マッカートニーがギタリストとして参加。1958年2月、ポールの友人だった14歳のジョージ・ハリソンをジョンがオーディションし、数ヵ月後にジョージはリード・シンガーとしてグループに参加。1959年1月、友人が抜けてギタリスト3人トリオとなった彼らはジョニー&ザ・ムーンドッグス(Johnny & the Moondogs)を名乗りロックンロールを演奏。1960年、ジョンが通っていたリヴァプール・カレッジ・オブ・アートの友人スチュアート・サトクリフがベーシストとしてグループに参加。同年5月頃、スチュの提案でグループ名を The Beatles として活動。そしてリヴァプール出身の歌手 ジョニー・ジェントル のバッキングとしてスコットランド等をツアーで遠征し、同年7月より約一ヶ月の間は The Silver Beatles として活動。同年8月、ドラマーに恵まれなかった彼らは、当時の臨時マネージャー/アラン・ウィリアムスが手配したドイツ・ハンブルク公演のために、ピート・ベストを迎え入れて5人編成となり、その後約2年間はハンブルグを中心に活動。1961年1月、スチュアートは絵描きに専念する為、グループからの脱退を決意し、ポールがベーシストとなる。そして当時交流のあったドイツの音楽プロデューサー/ベルト・ケンプフェルトの提案で、歌手トニー・シェリダンのバックを努める。1961年6月に録音された「My Bonnie」はトニー・シェリダン&ザ・ビート・ブラザーズ(Tony Sheridan & The Beat Brothers)名義でリリースされヒットした。ハンブルグでの人気を確立した彼らはその後再びリヴァプールに戻り演奏。同年11月にキャヴァーン・クラブにて、レコード屋店主で音楽評論家の ブライアン・エプスタイン と出会い、1962年1月にブライアンは彼らのマネージャーとなる。同年2月にDECCAレーベルのオーディションをうけるものの「ギター・グループは落ち目だ」という理由から不合格となったが、マネージャーのブライアンがEMIレーベルの音楽プロデューサー/ジョージ・マーティンとの交渉に成功し、同年6月に彼らはPARLOPHONEレーベルと契約する。6月6日には早速、アビーロードスタジオでの初セッションが行われたが、「ドラマーがヘタだ」という理由で、同年8月にロリー・ストーム&ザ・ハリケーンズ(Rory Storm and the Hurricanes)出身のドラマー/リンゴ・スターが新たにメンバーとして加入。それでもその時のセッションはジョージ・マーティンは気に入らず、スコットランド出身のセッション・ミュージシャン/アンディー・ホワイトのドラムスを起用し、「Love Me Do」と「P.S. I Love You」を録音した。同年8月にリリースされた彼らのファースト・シングル「Love Me Do」は全英シングルチャートで最高17位を記録する大ヒットとなり、その後テレビにも出演。マネージャーのブライアンの提案により、髪の毛は下ろし、揃いのスーツを着て、ステージでは悪態をつかず禁煙もし、演奏が終わればお辞儀をする…等々、クリーンな印象を持つバンドとしての売り込みにも成功しました。以降は解散を迎える1970年まで第一線で活躍し、ロック史/歴史に残る伝説のバンドとして君臨している。
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