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Sixties 45

The Beatles - Do You Want To Know A Secret / Thank You Girl

1964(1963) USA Original 45rpm Record [VEE-JAY/VJ 587]

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20世紀の音楽史に残るイギリス出身の伝説のロック・バンド/ザ・ビートルズが、1964年にVEE-JAYレーベルからリリースしたシングルです。

ジョージ・マーティン・プロデュースによる作品です。

George Martin

ビルボード・トップ100チャートで最高2位を記録しました。イギリスでは1963年のアルバム『プリーズ・プリーズ・ミー』に収録されています。

1962年の秋に、主にジョン・レノンによって書かれた曲で、レノン&マッカートニーとしてクレジットされています。ウォルト・ディズニーのアニメ『白雪姫』に挿入されていた「アイム・ウィッシング」に触発されており、歌の最初の2行「秘密を知りたいですか?教えないことを約束しますか?」は、本作のオープニング歌詞の直後にあります。



録音は、1963年2月11日に行われた10時間のマラソン録音セッションの一部として、『プリーズ・プリーズ・ミー』の他の9曲と共に録音されました。ジョン・レノンとジョージ・ハリソンは異なるチャンネルでアコースティックギターを演奏し、ジョージがリードボーカルを務めています。アメリカでは、1969年に「カム・トゥギャザー」で両面ナンバーワンヒットとなった「サムシング」が1位に達するまで、ジョージがリードボーカルを取ったザ・ビートルズの歌の中で最も成功した一曲です。

1963年4月26日にリリースされたビリー・J・クレイマー&ザ・ダコタスのバージョンは、UKシングルチャートで最高2位に達し、NMEチャートとBBCのピック・オブ・ザ・ポップスのチャートで1位、アイリッシュ・シングルチャートで8位に達しました。



裏面もビルボード・トップ100チャートで35位を記録した両面ヒットです。アルバムは米CAPITOLレーベルでのアルバム『ザ・ビートルズ・セカンド・アルバム』に収録され、イギリスでは1988年の『パスト・マスターズ Vol.1』まで収録されなかった作品です。

ジョン・レノンとポール・マッカートニーによって書かれ、多くの女性ファンへのオマージュだそうです。録音は、1963年3月5日に13テイクで録音されました。

黄色レーベルにVJロゴのバリーエーションで比較的珍しいプレスです。

コンディション:VG/VG/TROL/RW
マトリックス番号63-3191 AudioMatrix / 63-3219 AudioMatrix

アーティスト【ザ・ビートルズ】























ロック・グループ。1957年3月、クオーリー・バンク・スクールに通う16歳のジョン・レノンが結成したスキッフル・グループ/ザ・ブラックジャックス(The Blackjacks)~ザ・クオーリーメン(The Quarrymen)が前身となる。同年7月、15歳のポール・マッカートニーがギタリストとして参加。1958年2月、ポールの友人だった14歳のジョージ・ハリソンをジョンがオーディションし、数ヵ月後にジョージはリード・シンガーとしてグループに参加。1959年1月、友人が抜けてギタリスト3人トリオとなった彼らはジョニー&ザ・ムーンドッグス(Johnny & the Moondogs)を名乗りロックンロールを演奏。1960年、ジョンが通っていたリヴァプール・カレッジ・オブ・アートの友人スチュアート・サトクリフがベーシストとしてグループに参加。同年5月頃、スチュの提案でグループ名を The Beatles として活動。そしてリヴァプール出身の歌手 ジョニー・ジェントル のバッキングとしてスコットランド等をツアーで遠征し、同年7月より約一ヶ月の間は The Silver Beatles として活動。同年8月、ドラマーに恵まれなかった彼らは、当時の臨時マネージャー/アラン・ウィリアムスが手配したドイツ・ハンブルク公演のために、ピート・ベストを迎え入れて5人編成となり、その後約2年間はハンブルグを中心に活動。1961年1月、スチュアートは絵描きに専念する為、グループからの脱退を決意し、ポールがベーシストとなる。そして当時交流のあったドイツの音楽プロデューサー/ベルト・ケンプフェルトの提案で、歌手トニー・シェリダンのバックを努める。1961年6月に録音された「My Bonnie」はトニー・シェリダン&ザ・ビート・ブラザーズ(Tony Sheridan & The Beat Brothers)名義でリリースされヒットした。ハンブルグでの人気を確立した彼らはその後再びリヴァプールに戻り演奏。同年11月にキャヴァーン・クラブにて、レコード屋店主で音楽評論家の ブライアン・エプスタイン と出会い、1962年1月にブライアンは彼らのマネージャーとなる。同年2月にDECCAレーベルのオーディションをうけるものの「ギター・グループは落ち目だ」という理由から不合格となったが、マネージャーのブライアンがEMIレーベルの音楽プロデューサー/ジョージ・マーティンとの交渉に成功し、同年6月に彼らはPARLOPHONEレーベルと契約する。6月6日には早速、アビーロードスタジオでの初セッションが行われたが、「ドラマーがヘタだ」という理由で、同年8月にロリー・ストーム&ザ・ハリケーンズ(Rory Storm and the Hurricanes)出身のドラマー/リンゴ・スターが新たにメンバーとして加入。それでもその時のセッションはジョージ・マーティンは気に入らず、スコットランド出身のセッション・ミュージシャン/アンディー・ホワイトのドラムスを起用し、「Love Me Do」と「P.S. I Love You」を録音した。同年8月にリリースされた彼らのファースト・シングル「Love Me Do」は全英シングルチャートで最高17位を記録する大ヒットとなり、その後テレビにも出演。マネージャーのブライアンの提案により、髪の毛は下ろし、揃いのスーツを着て、ステージでは悪態をつかず禁煙もし、演奏が終わればお辞儀をする…等々、クリーンな印象を持つバンドとしての売り込みにも成功しました。以降は解散を迎える1970年まで第一線で活躍し、ロック史/歴史に残る伝説のバンドとして君臨している。